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進化論と知的設計(Intelligent Design)論 [思想と科学]

友人の kusano1967 氏が blog に面白いことを書いていたのでトラックバック。
内容はトラックバック先をきちんと読んで欲しいのだが、乱暴に概略をまとめると大体以下のようになる。
学校では、生物は進化論に従って進化すると習う。しかし、偶然都合の良い変化が起こるとはとても考えられない。生物を生かそうとする「誰か」を仮定して、「誰か」が遺伝子をバージョンアップさせている、と考えたらどうだろう。そう考えると色々辻褄が合うぞ・・・と思ったら、既に ID 論(Intelligent Design 論)とか言うのが同じことを言っていた。しかし ID 論には宗教的背景があり、独自に着想したのに彼らと同じに見られるとは運が悪い。やれやれ。いずれにせよ、どちらが正しいのかは決定的な証拠が出るまでは分からないのだが。

kusano1967 氏はまた、プログラマとソフトウェアを「誰か」と生物に対比させて、「誰か」の存在に説得力を持たせている。
生物進化をソフトウェアの修正に例える。修正を加える場合、コードを偶然にまかせて書き換えるなど絶対にしない。なぜなら適当に書き換えて良い結果が得られる可能性など現実的にゼロだからだ。だから良い結果を得るためにはプログラマが意思を持ってコードを更新し、ソフトウェアを「進化」させる必要がある。

なかなか面白いので考察してみたいと思う。考察といっても、超越的な「誰か」もしくは「何か」の存在を論理的に結論付けることは原理的に不可能なので(可能であればそれは超越存在ではない)、ここでは「何か」が存在すると仮定した上で、その設計者としての仕事ぶりを考えてみたい。
念のため記しておくが、kusano1967 氏はやけにスピリチュアルな絵を私に売り付けたり、「とってもためになる話があるから聞きに行こう」とかいう誘いに乗って行ってみたら囲まれて書類にサインするまで帰してもらえなかったり・・・とかそういう人ではない。単に「こう考えると色々辻褄が合う」と言っているに過ぎない。私がここで書くことも、kusano1967 氏の危険思想を正してあげようとか、論破して溜飲を下げようとかそういう意図に基づくものではない。ただ、私は進化論者であって ID 論者ではない。その立場は明確にしておこう。

まず最初の大前提として、時として生物は精巧にして複雑な器官・仕組みを備えており、偶然から生まれたとはとても思えないような精緻なものも数多いということは誰しも賛成するところだと思う。
よって、「何か」の第一の仕事ぶりとして以下を挙げよう。



(a) 「何か」は時として素晴らしい設計を行う。


生物の種は、分類されている現生種だけでも数百万あると言われる。絶滅種も含めればさらにその数倍以上と考えられる。このことから、仕事ぶりの第二は以下である。



(b) 「何か」は極めて多くの設計・実装を行った。


さて、ID 論の主張では「キリンの首」問題がよく出てくる。キリンの首が長いことについて、ID 論では二つの主張が行われる。まず一つ目は以下のような主張である。
<1>
首の短いキリンの祖先は化石として発見されているが、現代のキリンとの中間に位置する、中途半端な首の長さのキリンの祖先は発見されていない。偶然による突然変異でいきなり首が長くなるなど考えられないので、「何か」があるとき首を伸ばしたのだ。

<1>から「何か」について以下が言える。



(c) 「何か」は時として外観上の大きな設計変更を行う。


ただ、キリンといえども頚椎の数はその他の哺乳類と同じく7つである。長くするなら頚椎の数を増やした方が自由度が増して良いと思うのだが、基本設計はあまり変えない方針のようだ。



(d) 「何か」の設計変更方針は、基本構造を変えない「逐次改善」である。


これは、動物が哺乳類、爬虫類、鳥類等々、特徴を共有する分類群をなすことからも頷ける。なにしろ地球上全ての生物は遺伝情報をアミノ酸として保持し、その光学異性体は例外なく同一方向で、体の主要器官は炭素系の化合物によって構成されている。従って、化学的な基本設計については人間の知るところ数十億年に渡り変更されていない。だから、以下のように言い切っていいと思われる。



(e) 「何か」は決して根本的な設計変更をしない。


なお、キリンに見られるように形態変化途中の証拠がないことを「ミッシングリンク」といい、しばしばこれこそが ID 論の証拠であるとされる。しかし私の知る限り、門や網レベルの生物分類においてその起源が他と隔絶しているものはない。よく取り沙汰されるのは人類の起源におけるミッシングリンク(つまり種のレベル)だが、ここ数十年で発見が相次いでおり以前に比べると大分ミッシングリンクが埋まった(アルディピテクスなど)。鳥類などは長らくその起源にミッシングリンクが存在したが、近年中国で直接の起源と見られる化石が発掘されたと聞く(それで始祖鳥は鳥の祖先候補から脱落した。残念。あのフォルム好きなんだが)。子供の頃に行った「ピテカントロプス展」は、見つかっている最古の人類祖先という触れ込みだった覚えがあるが隔世の感ありである。
しかしどんなに発見が相次いでも、ミッシングリンクが完全に埋まることはない。現生種Aとその祖先の化石Bの間に位置する化石Cが見つかったとしても、AとC、CとBの間は依然としてミッシングリンクである。「ミッシングリンク」という言葉を使う場合は、これを理解しておく必要がある。
生物の進化系統については、上野の国立科学博物館に「系統広場」という素晴らしい展示がある。ぜひご覧あれ。

余談が長くなった。本題に戻ろう。
キリンの首について、二つ目の主張は以下のようなものである。
<2>
単純に首が長くなるだけではキリンは生きられない。脳に血液を送るためには高い血圧が必要で、さらに首を上げ下げしたときに脳血圧の急激な変動を抑えるための機構(逆止弁、ワンダーネット)が必要となる。キリンはその両方を備えている。首の長さの変化とこれらが偶然同時に起こるなどあり得ない。「何か」がそう設計したのだ。

これについて考えてみよう。キリンの仲間にはオカピというのがいる。オカピは馬のような鹿のような動物で、さして首が長いわけでもないがワンダーネットは備えている。<2>は異なる機能が同時に実現されたと主張しているが、オカピの首が長くない以上、首の長さとそれを補償する機能は同時に実現されたものではないと言える。したがってここから言えることは以下である。



(f) 「何か」は無駄な機能を設計・実装することがある。



もう一つ、ID 論が進化論に投げかける、以下の興味深い疑問について考えてみよう。
<3>
進化論では種の形態が変異と淘汰によってより生存に適したものに変化するとしている。ならばなぜ生きた化石と呼ばれる生物群が存在するのか。何億年も同じ形態というのはおかしいのではないか。

進化論に対する根本的な誤解が含まれているが(進化論は「生物は必ず変化する」などとは言っていない)、それはそれとして生きた化石と呼ばれる生物がいることは確かだ。「生きた化石」はその名前が示すように希少な例である。一方、現代では見られない様々な生物~つまり過去に滅んだ生物~が化石などで見つかる。従って、ほとんどの種が滅んできたことは間違いない。つまり「何か」の設計は、ひとまず正常に動作するもののそのうち不具合を生じる場合がほとんど、ということになる。



(g) 「何か」が設計したほとんどのものは、最終的に不具合を生じる。


ただ失敗するだけなら仕方ないとも言えるが、修正方法の分かっている不具合を長年に渡り放置することもある。
「何か」の精巧な設計の例として、よく眼球が取り上げられる。眼球というのは非常に精密かつ複数の部品が合わさって全体をなしているので、「何か」が設計しなければ実現不可能だ、というわけだ。主張としては<2>と同種のものである。
受光器官と言う意味では単純な受光細胞(ミミズなどが持っている)、昆虫の目、哺乳類の目、と複雑さには段階があり、決して人間の目が他に比べて不自然に高機能というわけではないのだが、それはここでは置いておこう。興味深いのは、人間の目と構造が近いとされているイカの眼球だ。構造は近いのだが、イカには盲点がない。どういうことかというと、視細胞の網膜への取り付け方が人間(というか脊椎動物全般)とイカとでは逆なのだ。人間の視細胞は視神経が眼球の内側に伸びる方向に配置されているが、イカの視神経は外側に伸びている。そのためイカの眼球には視神経の引き出し口が必要ないのだ。盲点などは明らかな設計ミスと思われるが、脊椎動物全てが同様の目を持っていることから見て、「何か」に設計変更の意思はないと思われる。イカでは正しい設計をしたにも関わらず、である。



(h) 「何か」はたとえ修正方法が分かっていても、設計ミスを直さない。


ミスとまでは言えないが問題のある設計についても、良い設計の横展開はしない方針のようだ。例えばクジラなどの水棲哺乳類には魚で設計・実装が確立したエラを与えれば良いと思うのだが与えない。代わりに鼻を頭頂につけるというなんとも珍妙な変更を行っている。人間は永久歯が抜けてしまうと歯抜けになってしまうが、サメの歯はいくらでも生え変わる。人間の歯も生え変わるようにすれば良いのに。



(i) 「何か」は良い設計の横展開をしない。


ただ、考え方を引用することはあるようだ。相似器官がこれに当たる。しかしこれも漸次改善の手法で行うので、横展開による根本的な設計改善ではない。

ID 論者の主張としては他にも「進化論では人間がサルから進化したと言っているが、サルから人間が生まれたことはない。だから進化論は間違いだ」とか「進化するというのなら弱い種が存在するのはおかしい」とかいうのもあり、まだまだ面白い考察ができそうだが大分長くなったのでここらにしておこう。
進化論の立場からの意見を参考までに記すと、前者は進化論の「人間とサルが共通の祖先を持つ」という主張を「サルが人間になる」と誤解していることに起因した主張(要するに、進化論は「サルから人間が進化した」などとは言っていない)、後者は進化と「進歩」の混同(進化論において進化という場合はいわゆる「退化」も含む。また進化は確率的であり必ず起こるものではない)と、進化論が「弱いものは滅ぶ」と主張していると誤解していることに起因しており、そもそも進化論をよく理解していないがための主張だ、ということだけは述べておこう。

さて、「何か」の仕事っぷりをまとめてみよう。順番は少々入れ替えた。これらはどれも、観測から導き出した事実である。(a) と (b) には「素晴らしい」「極めて」と主観的要素が一部入っているが、ポジティブ評価なのでよしとしてもらいたい。


(b) 「何か」は極めて多くの設計・実装を行った。
(a) 「何か」は時として素晴らしい設計を行う。
(e) 「何か」は決して根本的な設計変更をしない。
(d) 「何か」の設計変更方針は、基本構造を変えない「逐次改善」である。
(c) 「何か」は時として外観上の大きな設計変更を行う。
(h) 「何か」はたとえ修正方法が分かっていても、設計ミスを直さない。
(i) 「何か」は良い設計の横展開をしない。
(f) 「何か」は無駄な機能を設計・実装することがある。
(g) 「何か」が設計したほとんどのものは、最終的に不具合を生じる。


うーん、どうだろう。「何か」がソフトウェアエンジニアだったとすると、以下のような感じだろうか。
  • コーディング量がとても多く、多数のソフトを設計、実装、リリースしている。
  • これまで、非常によくできたソフトを生み出している。
  • 一度設計・実装したコードは、動いたが最後根本的に書き換えることは決してしない。修正は小規模な追加・削除で行う。
  • 時として外観上の大幅変更を行うことはある。ただその場合も、アルゴリズムやアーキテクチャの変更は行わない。
  • 製品系列を超えた移植は行わない。ある製品系列のソフトに不具合が発覚し、別系列の製品ではその問題が生じない実装がされていたとしても、移植による不具合の修正は行わない。
  • 使わない機能を一生懸命設計・実装し、それを含んだままリリースすることがある。
  • 作ったソフトはしばらく問題なく動くが、長い目で見るとほとんどが問題を生じて動かなくなる。

なるほど・・・彼、または彼女は有能なエンジニアだろうか?もし私が彼または彼女の同僚だったら、こう言ってしまいそうだ。



「お前考えて仕事してないだろ?」



最後に、ID 論者、特に宗教的な観点から ID 論を支持する方々に問いかけたい。
(なので、この質問は kusano1967 氏とは全く関係がない)

上で述べたように、「何か」は生命の設計に関してまるきり無能、いや有能なのかもしれないがフザけているとしか思えない。あなた方が「何か」を神だというのであれば、ID 論は神への冒涜ではないのか?それでも ID 論を主張し続けるつもりか?

ご意見、間違いの指摘、その他なんでもありましたらコメント欄にどうぞ。

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コメント 3

kusano1967

どうも。
まだ例の本を読み終わっていないので、誤解のあるところだけ。

>進化論に対する根本的な誤解が含まれているが(進化論は「生物は必ず変化する」などとは言っていない)

偶然によって進化が発生するのであれば、ある種の生物は永い期間の間に何度も何度も進化し、ある種の生物はずっと進化しないというのは数学的(確率論的)におかしい。

>(h) 「何か」はたとえ修正方法が分かっていても、設計ミスを直さない。

例に挙げられた人間の目は、今のままでも困らないからあえてコストをかけて直すことをしないだけかもしれない。(事実、人間は今のままでも充分に「強い」)

>(g) 「何か」が設計したほとんどのものは、最終的に不具合を生じる。

環境(地球そのものや、捕食者の進化など)が変化すれば、以前の設計が動かなくなるのは当然。WindowsVistaの上でMS-DOSのソフトが動かないからおまえは無能だと言われましても。

>進化論が「弱いものは滅ぶ」と主張していると誤解している

ポジティブな方向の突然変異により以前の種が淘汰され、新種のみが生き残るという進化論(オレは「進化論」でなく「偶然説」と名づけたいが)は、弱いものは滅ぶと言っているように聞こえる。誤解だろうか。

by kusano1967 (2009-12-27 18:38) 

munehiro

> 偶然によって進化が発生するのであれば、ある種の生物は永い期間の間に何度も何度も進化し、ある種の生物はずっと進化しないというのは数学的(確率論的)におかしい。

進化によりある種から他の種が生まれても、元の種が消えてなくなるわけではない。進化とは分岐であって種全体の変化ではない。だから「ずっと進化しない」ように見える元の種と、「何度も進化」した種の共存は確率論的に何もおかしいところはない。

> 例に挙げられた人間の目は、今のままでも困らないからあえてコストをかけて直すことをしないだけかもしれない。(事実、人間は今のままでも充分に「強い」)

「何か」の行いについて理由を推測することは、思索としては面白いのだがそこからは何も結論が引き出せない。どんな事象でも「それは『何か』が・・・と考えたからだ」で説明が可能なのだから。
蛇足だが、「何か」が存在しないことは「悪魔の証明」であって反証可能性は明らかにゼロ。だから本文では「何か」の存在を前提とした上で事実から「何か」の性質を考えてみた。すると「何か」がまるで意思を持っていないかのような結論に達したのが興味深い。

> 環境(地球そのものや、捕食者の進化など)が変化すれば、以前の設計が動かなくなるのは当然。WindowsVistaの上でMS-DOSのソフトが動かないからおまえは無能だと言われましても。

地球環境に関して言えば、ニホンオオカミの生きていた時代と現代とでそれほど大きな環境変化など見られない。マンモスも高緯度地方でなら十分生きられるように思えるのだが、滅んでしまった。もちろん環境変化に耐えられず滅んで行った種も多いとは思う。しかし有史時代に限っても次から次へと種は死滅しており、その間地球が激烈な環境変化に襲われているわけではない。
捕食者の進化に関しては、それはそもそも「何か」が行ったこと。それで種がバタバタ滅ぶのであれば、やはり「何か」は全体を見渡さずにその場しのぎの対応を続けていることになる。
OS の例えは地球環境の変化のアナロジーとしては一部有効だと思う。しかし上で述べたように、ここ数百万~数千万年の純粋な意味での地球環境の変化、具体的には大気組成、海水組成、海水面の上昇・下降、気温などは、喩えるにしてもせいぜいマイナーバージョンアップ程度の変化のように思える。つまり、SP1 で動いていたソフトが SP4 くらいになるとほとんど動かないという状況を思い起こさせる。
捕食者の進化は OS よりむしろ同一環境で動作する複数のソフトウェアを考えるべきだと思う。つまり、Word の後に Excel をインストールしたら Word が動かなくなった、というケースに相当する。Word と Excel のどちらが悪いのかはともかく、両方共同じプログラマが作ったソフトなのであれば、そのプログラマは無能だといえるだろう。

> ポジティブな方向の突然変異により以前の種が淘汰され、新種のみが生き残るという進化論(オレは「進化論」でなく「偶然説」と名づけたいが)は、弱いものは滅ぶと言っているように聞こえる。誤解だろうか。

「種の起源」が手元にないので記憶に頼るが、進化論の主張は「環境に適応した形質を獲得した種はより多くの子孫を残す」というもの。新種と旧種でニッチが完全に重なった場合旧種が滅ぶこともあるが、微妙にずれていたり、環境に両方の種の個体数を受け入れる余裕があれば両方とも残ることになる。どちらにせよ進化論との矛盾はない。

by munehiro (2009-12-30 13:51) 

kusano1967

一冊目は読み終わった。
話のドリフトを防ぐために、(a)-(g)に戻って、プログラマ的観点より検証してみる。

(b) 「何か」は極めて多くの設計・実装を行った。
(a) 「何か」は時として素晴らしい設計を行う。
この二つはコメントする必要はないだろう。

(e) 「何か」は決して根本的な設計変更をしない。
"leave well alone" とかいうことわざがあったように思う(よいものは放っておけ)。コスト的にも「根本的な変更をしない」というのは妥当である。

(d) 「何か」の設計変更方針は、基本構造を変えない「逐次改善」である。
これは(e)と同値かと。

(c) 「何か」は時として外観上の大きな設計変更を行う。
基本構造は変えたくないが、環境が激変した場合、例えば入力装置がキーボードだけだった状態からマウスが使えるようになった場合などは、大きな設計変更を行うことはあるだろう。

(h) 「何か」はたとえ修正方法が分かっていても、設計ミスを直さない。
イカの眼が人間の眼より優れているとしても、違う種類の眼の設計を移植するコストがどれほどなのかはわからない。例えばMacOS上で作ったソフトでの良い機能をWindows上のソフトに移植せいと言われても、MacOSでのソフトの蓄積を前提にしているものであれば、移植には大きなコストがかかる。「直さない」のではなく「直すと大変」であれば無理に直さないだろう。

(i) 「何か」は良い設計の横展開をしない。
これも(h)と同値と思われる。サメの歯は生え変わるけれど、そのためにサメが払っているコストはどれほどだろうか。人間の現状の機能を失わないまま、歯が生え変わるようにすることは難しいのかもしれない。

(f) 「何か」は無駄な機能を設計・実装することがある。
これが一番の問題だと思う。何だって必要のないワンダーネットがオカピに実装されているのか。人間の虫垂みたいに、キリンが退化してオカピになったのだろうか。飛べない鳥もいるし。結果を見ると無駄に見えるが、キリンへの進化の途中で停止したのか、キリンが退化したのか、進化の向きによっては「無駄を実装した」とは言えなくなってしまう。
ちょっと脱線するが、偶然説(進化論)の問題点は、「漸近的な進化しかありえない」と言い切っている点であり、それに沿えば、ありとあらゆる生物の進化において、このオカピのような例が存在しなくてはならないことになる。わざわざオカピのような特殊な動物を取り上げるまでもなく、掃いて捨てるほどの例が無くてはおかしい。

(g) 「何か」が設計したほとんどのものは、最終的に不具合を生じる。
コメント済みなので省略。ただ、「捕食者の進化に対応できないなら設計がおかしい」という解釈は先走りすぎかと。環境が変われば一番弱い種がまっさきに進化し、するとそれを捕食していた次に弱い種が進化し・・・というふうにドミノ倒し風に進化が伝播していく現象は起こり得るだろう。

以上により、「偶然説でなくては説明できない事象」は(a)-(g)中には存在しないと判定する。あれ、muuuhhhはそんな事は言ってないんだったっけ。まあいいや。

by kusano1967 (2010-01-06 11:10) 

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